安房直子記念〜ライラック通りの会

童話作家 安房直子さんの世界を語り継ぐ

安房直子さんの作品世界は、時代を越えて多くの人の心によりそい続けてくれます。
その豊かさをまだ知らない子供たちや、若者、大人たちに、
安房直子さんの作品が広く読み継がれていってほしいと、私たちは願っています。
そのためのいろいろな活動をみなさんと一緒にやっていきたいと、この会を立ち上げました。


世話人 石川珠美 松多有子
スタッフ 永田陽二 野田香苗  イラスト 仁藤眞理子
  事務局 安房直子記念~ライラック通りの会 awanaoko.lilac@gmail.com

第2回全体会ご案内 ~朗読とお話と懇談~

 

4月9日(土) 2:00~5:00
保谷駅前公民館 第2集会室 参加費1500円  定員36名

 
朗読   安房直子作 「はなびらづくし」         秋元 紀子
お話 「花びらづくし」考~群生と孤影の幻想   石井光恵
懇談 「花びらづくし」の物語を中心に、またはどんなお話でも

      ~~~全国からの 皆様のご参加をお待ちしています~~~

 

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”するとこのとき、花ふぶきの奥から、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん・・・・

ふしぎな音が伝わって・・・・”  第2回全体会は、「はなびらづくし」を語っていただきます。石井光恵さん(日本女子大学児童学科教授)の 学内誌に掲載された「はなびらづくし考」を読んだ世話人が、ぜひ!とお願いして、この企画が実現しました。


学生時代に、安房さんとも研究室で一緒におしゃべりをしていた仲の、きさくで誠実な先生でいらっしゃいます。 朗読は、<安房ワールドファンタジー 秋元紀子ひとり語り>を長年続けていらっしゃる 秋元紀子さんです。

折しもきっと桜は満開(のはず)。 みなさまそれぞれの桜をまとって、お集まりください。今回は、懇談の時間を長めに設けます。
 
お申し込みは、明日からお受けします。
①メールでawanaoko.lilac@gmail.com

②郵便で郵送版事務局(ネット上は非公開) までどうぞ。

会場の場所は、保谷駅前、西友の上です。
池袋から保谷(ほうや)までは、西武池袋線で20分前後です。

 

 

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            ご 報 告      

  文 庫

そのイメージは。。。

安房さんの著書の書棚が並んでいる、夢に見る「文庫の部屋」。。。

こで静かに、安房さんの本、雑誌、単行本未収録作品を読んで。。。

お茶の時間になったら、安房さんが愛した紅茶とクッキーを頂きながら、

リラックスして話します、好きな安房作品のこと、自分のこと。。。

そして時には、安房作品についての話し合いや勉強会をしましょう。

安房さんの世界をもっと深く知りたい、分かち合いたい時に。。。

 

ライラック通りの会 文 庫 会 ≪1≫

~単行本未収録作品、絵本や雑誌の作品、を読む・語る~

20161月17日(日) 2:00~4:30  終了済

保谷駅前公民館 第2集会室 参加者15名
朗読 近江竹生 お話 蓮見けい 

 
プログラム

 *紹介 安房直子さんの絵本・雑誌作品の描画等4点を楽しむ

    きのはのおてがみ 朝倉攝 絵 =小林文庫蔵=
     昭和43(1968).12.1発行 「あそび」静岡福祉事業協会 8頁
     くすりやのこうちゃんに、うさぎから木の葉のお手紙がとどきました。こうちゃんは・・・

   あきのはまべ 林静一 絵 =小林文庫蔵= 
     1990.9.19発行 「いちごえほん」9 サンリオ 7頁  
     秋の浜辺は、夏の忘れ物がいっぱい。お母さんと子どものカニは、闇の中に光る花火に・・・
   ちいさなちいさなおひなさま  ひろかわさえこ 絵  =小林文庫蔵=
     1991.3.19発行 「いちごえほん」3 サンリオ 15頁
     世界でいちばん小さなおひなさま。ひな祭りの夜中に、あやこはおひなさまと・・・ 
   安房直子 残された物語 赤い鳥文学賞受賞記念  =小林文庫蔵=
     1994.8.1発行 「MOE」 白泉社 4頁     
     安房さんの世界を、写真と共に紹介。味戸ケイコさん、南塚直子さんの追悼の談話も掲載。

 

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*特集 安房作品が語る〝まわり″ 

 朗読    「ひぐれのひまわり」  近江竹生   

描画鑑賞  味戸ケイコ〝ひぐれのひまわり″イラスト3作

         (絵の説明文と順。アンダラインは、初出画)

「ひぐれのひまわり」1976(昭和51年).9「詩とメルヘン」サンリオp10-19

 1-「暗色のひまわり」 2-走って行く少年 3-流れるゆうぐれの色の川 

 4-胸騒ぎする少女 5-川辺と空をいく鳥 6-たゆたうボート

「ひぐれのひまわり」追悼1993(平成17年).6「詩とメルヘン」サンリオp40-43 

 1-帽子のひまわりの少女 2-不安げな少女の顔 3-暗い舟

「ひぐれのひまわり」2005(平成17年).12 「夢の果て-安房直子17の物語」瑞雲社

 p69-82 「詩とメルヘン」1974-1986にわたり掲載された作品17編のうちの1作。

 1-走って行く少年 2-「暗色のひまわり」3-白いシャツの少年 4-たゆたうボート

 

お話 「ひまわり」、「向日葵」、そして「ひぐれのひまわり」

   ~夏のおわりに、小さくしおれて枯れた・・・美のきわみ、ラスト (要旨 あり)

                         蓮見けい

 *懇談 みんなで語る 安房作品 

                           閉会4:50

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              ~ 会のようす ~ 

  こぢんまりとした、いい会でした。また次回、たのしくお話ししましょう!

 

 安房直子さんの絵本・雑誌作品の、描画等4点 は 新鮮な驚きがありました。

3,4歳ぐらいの子どもたちに、安房さんがそっと差し出した小さな作品たち。朝倉攝さんや林静一さんが、いわゆる月刊雑誌の絵本に絵を描かれていることに、感嘆しました。心に残る丁寧に語られたお話と絵、宝物のような雑誌です。(まだまだ、たくさんあるようです) 「安房直子 残された物語」には、素(す)の安房さんの笑顔の写真2葉が掲載されていて、珍しい追悼特集です。安房さんを悼むエッセイも感動。

 

朗読 「ひぐれのひまわり」 に、一同、胸を打たれました。 

朗読がはじまると、一瞬の間に光景が変わって、川沿いの土手に立つひまわりの娘の、ゆうぐれの情景が広がるようでした。「作品そのものを、大切に“舞台“にのせる」魅力的な朗読、という評判でした。

 

味戸ケイコ イラスト3作〝ひぐれのひまわり″・・作品の意図を、創造的に描いたイラスト、安房さんの物語との、共にかもす美をたんのうしました。

味戸さんには、今回の「イラスト3作」を楽しむ会の企画を、事前にお話させて頂きました。そのとき改めて、味戸さんはなんと、誠実さやナイーヴな感性を持って、創造的な絵を描かれておられるのだろう、と感動しました。H

圧巻は、1976年の、ぜいたくにイラスト頁を設けた作品、そしてリアルな墨色のひまわり。。。1993年に初登場した「ひまわりの少女」の表情の、強い印象は忘れられない、という人も。2005年の絵には、白いシャツの少年も描かれています。味戸さんの、作品への深い愛と読み込み、描写力には、圧倒されるという声もしきりでした。

 

お話 「ひまわり」、「向日葵」、そして「ひぐれのひまわり」 

作品の紹介とお話が、1時間では盛りだくさんで消化不良だった。ので、レジュメを、帰ってからゆっくり読みます、という方が多かったことは、残念、不十分でごめんなさい。 お暇なかた、以下の「要旨」お読みくださいね。 H 

              

             ~~~~~~

 

お話 「ひまわり」、「向日葵」、そして「ひぐれのひまわり」 要旨  

   ~夏のおわりに、小さくしおれて枯れた ・・・美のきわみ、ラスト  蓮見けい

              以下の転載、一部転載は ご遠慮ください

#1.「ひぐれのひまわり」と15年前の作品「ひまわり」、「向日葵」をつなぐ、深い孤独

 今回お話させて頂くことは、①「ひぐれのひまわり」には、その15年前に書かれた、 “ひまわり”をモチーフ(中心的題材)にした2つのリアリズム作品があること、②感想としてよく聞かれる “「ひぐれのひまわり」は幻想的でとても惹かれる物語だけど、「孤独と不安」が美しすぎるというか、怖い印象もあり、ラストもつらい・・・”  という2点についての私見を少々、考えてみたいと思います。

 これら作品の底に流れている「対象喪失(たいしょうそうしつ=愛するものや目標にしているものを失うこと)の空虚感を描写する」ことに、作者は何を意図しているか、かねてから私は考えてみたいと思いました。不十分ながら、若い日の安房さんの書かれた美しいリアリズムに光を当てることができたこと、またファンタジー「ひぐれのひまわり」の、ゴッホのひまわりにも匹敵する(!)、究極の美を賛美できたこともうれしく、レポーターをさせて頂いて感謝でした。

さて、これらの作品が書かれた時期は、リアリズム作品の「ひまわり」は安房さんが18歳、高校3年の時。1年ほど間をおいて、改作「向日葵」は1961.10です。「ひぐれのひまわり」は1976.9の作品で、前2作とは、15年の年月があいています。ちなみに、安房さんは25歳で結婚、31歳ご長男誕生、そして「ひぐれのひまわり」は33歳で、すでに3つの文学賞を受賞されたころの作品です。

 

#2.「ひまわり」、「向日葵」の、リアルな物語に描かれた 闇と光の二極  

*物語 「ひまわり」より 

「ひまわりが燃えるように咲いた夏の日、僕はその黄色い花の下に新しい友達を見つけた。」・・・病弱で友達もいない僕に、母は少女を連れてきた。シーちゃんは僕と同い年の5歳で、「赤ちゃけた縮れ毛で、その下に、まるでびっくり箱の人形のように大きな目が光っている。」・・・女の子は怒ったように僕を見返す・・・僕にはそのぎこちない沈黙の時間が、おそろしく長く感じられた。 

「三本目のひまわりが咲いた。・・・相変わらず彼女は、来たり、来なかったり、気まぐれで、他に友達のいない僕は家にいて、ひそかにそれを待ちわびていた。」・・・「いつの間にか夏も終わりに近づいた。ひまわりの茶色い芯が、からからになってきて、あんなに明るく、お日さまの花のように咲きほこっていた黄色の花びらは、しぼんでしまった。・・・いつの間にかシーちゃんは来なくなってしまった。」 ・・・「シーちゃんはどこか知らない遠い所へ越してしまっていた。やっぱり気まぐれに、さよならも言いに来ないで・・・。」

 

*「闇」と「光」の対極を、たくみな「美の風景」として描き、そのまま終わる・・・ 

 物語の最初から、「僕」とシーちゃんの関係性がハッキリ語られます。「僕」には、この元気いっぱいの新しい友達は、何となくそら恐ろしかったといいます。二人の反対の特性、二極(にきょく)が語られ、またどこか「下町の子」との“身分の差”も感じられます。

 伸びやかで生命力に満ちたシーちゃんと内気な僕。気まぐれな彼女が遊びに来てくれるのを、僕はひたすら待っているという構図が、全体を通して語られます。でも夏の終わりに、いつの間にかシ-ちゃんは来なくなり、ひまわりも芯がカラカラになって、花びらはしぼんでしまったのでした。

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 作品「ひまわり」は、硬質で巧みな語りや「僕」の心象風景などが描かれていて、18歳の安房さんは、まるで熟年作家ふうに健筆です。「光」にあこがれる「闇」のように、病弱で臆病な「僕」は、快活なシーちゃんとの、居心地のいい場所、調和を見つけたいと思うのに、すれ違う心の動きがリアルであればあるほど、読み手はそこにどうしようもない闇と光の対極(対立)を見ます。

ふつう、ひまわりという花は、夏の終わりに茶色い花芯が力強く隆起し、無数のタネを実らせます。華麗でドラマチックなひまわりの一生は、「生命」の象徴として語られることが多いようです。でも作者は、そこに「花の死」を感じたようです。それは、僕の視界から、あっという間に消えてしまったシーちゃんの死でもあり、ひそかにシーちゃんを待ち続けた僕の死でもあります。

 

*物語  「向日葵」より 

「向日葵(ひまわり)」は、安房さんが大学1年の1961年10月、「婦人文芸」に投稿、掲載されたもので、前作「ひまわり」を改作した作品です。物語は、前半(僕とけいさんとシーちゃんの交流物語)と後半(けいさんの少女時代の回想)に、分かれていますが、今回は後半部分は省略し、後日改めて、このあたりを考えることにします。

 

「シーちゃんが初めてやってきたのは、夏休みの始まった最初の日」。「そのとき僕は、ばあやのけいさん(ばあやと呼ぶには少し若い人だったけれど)に、無理矢理、薬を飲まされようとしていて」、泣きじゃくりながら抵抗していた。・・・そんなときにひょっと泣き顔を上げたら、垣根のそばのちょうど向日葵のところに、よその女の子が立っていたのだ。・・・

 ある日シーちゃんは、「あたしの家に遊びに来ない?」と誘ったが、僕がかぶりを振ると、「うわあいやだ。この子ひとりで来られないのよ」、「わーい弱虫、弱虫」と何度も何度もふしをつけて歌いながら、帰ってしまった。・・・

  砂遊びをしながら彼女は、キラキラ光る石を掘り当てた。・・・「これきっとねうちものよ」・・・「誰か昔の人が埋めたのよ」、だからかくしておこうと、 二人は向日葵の花の下に穴を掘った。「夏は終わりに近かったけれど、向日葵は、黄色い花びらをかっとお日様のほうに向けてシーちゃんの背丈よりも高かった。・・・「絶対誰にも言いっこなしよ」 彼女はちょっときつい目をして、小指をつき出した。向日葵の花をひい、ふう、みい、よお、と数えて、「五つ目の下よ。ちゃんと覚えといて」と言った。

「あれからまもなくけいさんは、暇をとってしまった。・・・僕が学校へ通い始めた頃、もうシーちゃんはどこかへ引っ越してしまっていた。・・・けれど夏が来ると、僕は見事に咲きそろった向日葵を見ながら、ふと、今にもあの藪睨みの女の子が垣根をくぐって、いつかの宝物を掘り出しに来そうな気がしてならない。」 

 

* リアリズムで語ることは、リアリズムでしか 解決を見いだせない・・・  

1. 行ってしまった けいさん、そしてシ-ちゃんも・・・

坊っちゃん」と「ばあや」という身分差が、二人の交流の土台になって、豊かに展開します。 シーちゃんは、この町に越してきたばかりで三年生。僕は、病気で二年遅れの一年生、でも二人とも、学校を休んでいます。この、勝ち気そうでちょっと藪にらみの大きな目をした女の子に、僕は何かしら怖いような気持ちを感じます。明るさや野性味にあふれるシ-ちゃんは、僕には、はらはらする気の置けない相手なのでした。

シーちゃんが引っ越してしまった後、僕は、(シーちゃんと言わず)あの藪睨みの女の子が、ふとやって来そうな気がすると、距離を置いた言い方で、でも彼女を懐かしんでいます。「暇」をとってしまったけいさんも、「切ないほどなつかしい」と、僕は言います。精一杯僕が生きた世界が、こうして無情に、引き裂かれていったのです。

 

2. 母とばあやのけいさんの関係と、作者の意図は? 

 前作「ひまわり」では、母親がシーちゃんを家に連れて来たのでしたが、本作では、僕に深く関わる人物は、若めの「ばあや」に替わっています。また僕が「白い割烹着の袖に顔をうずめ」たのも、本作では、「母」から「ばあや」に換わっています。さらに、前作では「母」は、シーちゃんを連れて来ただけの存在として小さく描かれていたのに、本作では「母代わりの関わり」をする主要な人物は「ばあや」となっています。母親は、2カ所に少しだけ登場するだけです。母の不在だけでなく、物語の終わりでは、ばあやも「暇」をとって僕の前からいなくなってしまいます。作者は、「母性」の喪失を、テーマとしてはっきり打ち出しています。

 

3.「人と人の和解や統合を、リアリズムで書くのは難しい」こと?

 作家の藤澤成光さんは、こう言われています。安房さんは、「こうした(リアリズムの)スタイルで物語を書くことは、このときたった一度きりで放棄している。彼女は、人と人とが孤独という状態で乖離する(はなればなれになる)意識の問題は、リアリズムの想像力を用いる形式の営みに、どうしてもしたくなかった」のだと。(「こころが織りなすファンタジー 安房直子の領域」 テラインク2004 ) たしかに安房さんは、「人と人が孤独を越え真の和解や仲良くなる=関係性の統合を、リアリズムで書くのは難しい」と、感じたのかもしれません。

 

#3.「ひぐれのひまわり」の圧倒的な魅力、「本当の死」だけが「再生」を示す 

*物語 「ひぐれのひまわり」より

ひまわりは、ひぐれに夢を見るのです。・・・「どこに行くの?そんなに急いで」/ある日の夢の中で、ひまわりは、さけびました。・・・けれど、少年には、花の声が聞こえないらしいのです。・・・それなのにひまわりは、もう幾日も同じ夢を見て、/同じ言葉を、少年にかけていたのでした。・・・あるゆうぐれ。/夢の中で、ひまわりは、ひとりの生きた娘になりました。

 

・・・「どこに行くの?そんなに急いで」/少年はぴたりと止まりました。/「聞こえたのね!」/娘はおどりあがりました。/ひまわりの娘は、明るく笑いました。/たちまち、彼女の心に、真昼の歓喜が、よみがえって来たのです。/輝く夏の太陽を、全身にあびて笑い続ける黄色い花の、かわいた明るさが、この娘の全身にみなぎりました。 

 

あたしも、おどりこになれたらいいと、ひまわりは思いました。/黄色いスカートをひろげて踊る自分の姿を、/娘は、うっとりと目にうかべました。/けれども、踊っているその足もとから、/太陽よりも、もっと赤い炎が、めらめら這いのぼって来て、/スカートを燃やすのです。・・・

「助けて。助けて、助けて」/少年は、ひくくするどく、そうさけびました。・・・「追いかけられてるんだ!」・・・その目は、おびえたように、大きく見ひらかれていました。・・・  けれどこの時、あのボートの中に、もう少年の姿はありませんでした。・・・ひまわりの娘は、/ほのかな水あかりの中にいつまでも立ちつくしていました。

 

このできごとが、ひぐれの夢の中の事なのか、本当の事なのか、それとも/夢と現実のまじりあったものなのか、ひまわりには、わかりません。/わからないままに、ひまわりはその夏をすごし、/夏のおわりに、小さくしおれて枯れました。

 

*「死と再生」への思いや 、ユングの「全体性の獲得」を越える、安房さんの勇気 「ひまわりの死」 

1.「対象喪失」のきわみ・・・孤独な魂が、もっと孤独に

 自分の声が少年に聞こえて、娘はおどりあがったのです。けれども真昼の歓喜がよみがえったのは、ひまわりの娘だけでした。少年は別の、町の劇場の「おどりこ」に、心を寄せていました。「あたしもおどりこになれたらいいのに」と、娘は切なく思うのです。その時少年が走ってきました。おどりこを刺した少年は、追われているのでした。

「かくれなさい、あのボートの中に」 娘は、少年を守ろうと決めます。追ってきた人々に、「あっちへ行ったわ。どんどん走っていったわ」と言い終えると、娘の心に、言いようのない喜びが、わき上がってきました。・・・けれどこの時、あのボートの中には、もう少年の姿は無かったのです。

対象喪失」のきわみ・・・孤独な魂が、もっと孤独になる物語、前の2作と同じテーマです。ひまわりの花は「死と再生」ではなく、ただむなしく「死」んだのでした。

 

2.「孤独と不安」の心の闇を 掘って掘って掘り続けて、「無意識との対話」を“自力”で行なう

3つの “ひまわり”が、あえて「タネを実らせないまま、むなしく死ぬ」物語として描かれているのは、理由があってのことのようです。それは、(「母性の喪失」そのものに深く向き合うことや、その服喪の作業・モーニングワークをおこなう以前の、)多くの芸術家の仕事がそうであるように、安房さんにも強い意図があったのだと思います。

それは、「孤独と不安」の心の闇を、勇敢かつ真摯に、掘って掘って掘り続けて、「無意識との対話」を、“自力”で行なうことです。

現代の創造性に富む作家や芸術家は「無意識の思い」を知って、“自力”で「無意識と意識の思いを、納得のいく一つのものに統合させる術(すべ)」を会得しているようです。「ひぐれのひまわり」も、その一つだと思います。安房さんの「無意識の意識化」を、藤澤さんは「手品のような魔法」と、言い当てています。

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3.ユングが創始した、「無意識との対話」をおこなうアクティヴ・イマジネーション 

/ 能動的想像法という技法もある

 人と人の真の和解や統合は、リアルな世界=意識の世界だけで解決しようとすると難しいことが多いのですが、C.ユングは、「対立した関係を一つに統合する」アクティヴ・イマジネーション、能動的想像を「技法」として行うやり方を創始しました。それは、「心に浮かぶイメージ(無意識の思い)に、熱心に能動的(アクティヴ)に働きかけ問いかけていくことにより、無意識と意識の思いの統合が得られる」というものです。アクティヴ・イマジネーション/能動的想像法は、実は有史以前から、占い師や祈祷師、シャーマンなどに使われていたといいますが、近代では創造的な芸術家たちによって、ごく自然に「ものを作り出す」過程で用いられています。

 

ゴッホも、安房さんも語る ・・・「本当の死」だけが、「魂の再生」を指し示す 

1.ゴッホの描くひまわりは、「太陽という理想」と「地上の現実」の両方を抱え持つ「引き裂かれた姿」

 哲学者のG.バタイユは、ゴッホの描く「ひまわり」を論評して、こう言っています。「「理想」という概念が 「自己の現実」という概念に対立するように、「天の太陽」は「枯れた花」に対立する。わかりやすく云えば、ひまわりとは、「太陽という理想」と「地上の現実」とに引き裂かれた、両義的(りょうぎてき)存在を象徴する」と。        www.seijo.ac.jp/pdf/graduate/gslit/azur/13/azur-013-07.pdf 

「両義的存在」とは、「二つの互いに反対の意味を同時に持つもの」のことです。ゴッホのひまわりは、「太陽という理想」と「地上の現実」の、「対立する両方を併せ持つ存在」を描いている、というのです。そこには、「この世的な美の概念」ではない、ひまわりが語る「引き裂かれた姿」が描かれている・・・そこに見手は、花の「真実味」による「新たな美」が創造されているのを見ます。

 

2.芸術家たちは、「引き裂かれた苦悩」をこそ、テーマに描く

 リアルな世界、つまり「意識」の世界では解決できない「問題」は、「無意識」との対話によってだけ、「統合」へと近づくことができます。例えば私たちの「意識」(自我)が「孤独や不安」を感じるとき、心の底の底にある「無意識の情動」にアクティヴ(能動的)に問いかけると、言葉を持たない無意識からのメッセージ(イメージ)は、「意識」にとっては思いもよらない、真実味が感じられるものとして、示されます。なぜならそれは、「意識」とは違って(常識や対人ストレスなど、「真実の思い」を歪曲したり隠したりしがちな「意識」とは違って)、純粋に「思いそのもの」をイメージ(心像、形象)として示すからです。

 しかし「孤独」、藤澤さんの言葉では「人との乖離」は、誰もがみんな(人類全体の)共有するテーマで、芸術家固有のものではありません。現実には、誰もが孤独を解消させて安心を得たいと望みはするけれど、「悟りを開いて安心立命する」ことは、なかなか難しいわけです。それゆえ、繊細さや感性の高い芸術家たちは、「引き裂かれる苦悩」を、テーマにして作品を描いています。

 

3.そこに私たちは、普遍的な「魂の再生」を指し示す光があると感じる

「ひまわりの少女」の場合も、そうです。一瞬、「言いようのないよろこびが、ゆっくりと湧きあがってきた」、それもつかの間、ボートの中には、少女が思いを寄せた少年の姿はなかった・・・。何という無情! そのとき作者の能動的想像は広がり、無意識の思いが聞こえたことでしょう。「ここにはどんな慰めも癒しもない。おまえはただ、本当に死ぬ(自我を無くす)のだ」と。

 そんな恐ろしいこと!と自我は反発します。自分を慰めたり癒したりするもの、例えばおいしいケーキだとかぬいぐるみだとか、過眠、過食…でもでも、・・・そのようなごまかしは、深い対象喪失には何の意味も無いことを、自我(自分)は知っています。 

そして、だんだん互いに折り合い、意識(自我)は無意識の提案を受け入れていきます。「・・・わからないままに、ひまわりはその夏をすごし、・・・小さくしおれて枯れました」 という、「喪失の極み」がここに描かれています。自己(自我)を非自我(自己主張する自分ではないもの)に明け渡した時に、ほんとうの「死」は完成し、そこに「再生」のための光が見え始めます。ゴッホ安房さんも、“自力”での能動的想像によって、この魂の再生の方法を知ったに違いないように思います。

そこには、あのゴッホのひまわりが放つ、無骨さ(痛み)からにじみ出る新たな「美」が、究極の光としてあらわれます。あるいはまた、このレジュメの最初に紹介した読者が、“「ひぐれのひまわり」は幻想的でとても惹かれる物語だけど、「孤独と不安」が美しすぎるというか、怖い印象もあり、ラストがつらい” という時、そこにこそ「孤独の極み」が、「美の力」となって現れます。その美は、読み手の私たちの魂を震わせるので、それとわかります。そこには、普遍的な光、「魂の再生」を指し示す光があると感じます。          

                                終わり

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=お知らせ= ご連絡は メールまたは郵送版事務局までどうぞ 🌷

安房直子さんが、西東京市「郷土にゆかりのある人々」の1人として紹介されます。

西東京市中央図書館の開館40周年記念誌「縁<ゆかり>」誌上で、安房直子さんが紹介されます。3月に発行予定の同記念誌は、中央図書館にて無料でお分けするそうですが、4月の全体会で、ご覧いただけます。掲載に当たり、ライラック通りの会・資料室が、原稿作成のお手伝いをさせていただきました。

②【訃報】会員・秋元瑤様(秋元富子様) 2016.01.09 86歳 にて、ご病気療養中のところ、お亡くなりになりました。心より ご冥福をお祈り申し上げます。

③「安房直子単行本未収録作品 勉強会」メンバー募集中です。

安房さんの「単行本未収録作品」に関心がある方、中心になってくださる方、募集中です。カンペキな収集と共に、どのような形での印刷・出版が可能か、話し合っていければと思います。(担当世話人 蓮見)

安房作品の 子どもたちを対象とした企画を実現できないかと考え中です。

まず少人数の子どもを対象に・・・と、有志の方と少しずつ計画中です。子どもとの企画に関心のある方、アイデアをお持ちの方、お申し出ください。

安房作品「ハンカチの上の花畑」のドラマ仕立ての朗読脚本を書いてくださる方を探しています「きくや」の酒蔵での、小人一家とよしおさんの物語が実現?・・・わくわくしますね。

⑥ カンパ、寄附を有難うございます。“財政難”の折、感謝です。

 ご送金は、下記にお願いいたします。

 ゆうちょ銀行  店番008 普通預金 口座番号3317591  名称ライラックドオリノカイ 

⑦ブログをご覧になりにくい方は、お申し出ください。

 「ブログ郵送版」をお送りします。

 

ひとこと さいごに…

♪ 次回は、4月の全体会を予定しています。このところ、会員の二人の方がサポートしくくださり、大変助かっています。みんなで作るみんなのための、安房さんの世界を広める会楽しむ会、になりますように。。。